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更新日:2010年2月20日

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温泉津町の紹介

タヌキが発見した温泉津(ゆのつ)温泉

温泉津(ゆのつ)温泉

 温泉津温泉は、その昔傷ついた古タヌキが傷を直したことから発見されたと伝えられる古い温泉で、その起源は町誌によると西暦708年と記されている元湯温泉と、1872(明治5)年の浜田地震で湧きだした藤の湯温泉の二湯があります。温泉の効能は、神経痛、リュウマチ、高血圧、婦人病、ムチ打ち病、原爆症等に効く温泉で、「温泉と海」のまちとして多くの入湯客等で賑わっています。
 古くから近郷近在からの入湯客で繁栄してきた温泉街には、大内義興の本陣となったり、細川幽斎(ほそかわゆうさい)が連歌を催したとされる (えこうじ)や毛利輝元が入湯したとされる 元湯温泉があり、又周辺には毛利元就が石見銀山争奪戦の時本陣とし、元就本人が植えたとされる梅の木がある西念寺(さいねんじ)や毛利元就が命じて、水軍の基地として築城した鵜の丸(うのまる)城跡もあります。

交通機関

JR山陰本線温泉津駅下車
タクシー5分

毛利元就の影武者終焉の地「七騎坂(ひちきさか)」

七騎坂(ひちきさか)

 1543(天文12)年大内氏は出雲遠征で尼子氏を攻撃中大内軍内の裏切りに合い敗戦となり撤退を余儀なくされ、 さらに尼子軍の追撃を受けて壊滅的な打撃を被りました。その時毛利軍は撤退軍の殿を務め、 執拗なまでの尼子軍の追撃に悩まされながら降露坂(ごうろざか)まで逃げ、大森銀山を守る山吹城の城兵に発見され、大江坂七曲(おおえさかななまがり)まで追い詰められました。毛利元就、隆元等が自決を覚悟した時、 元就の甲冑(かっちゅう)と馬を貰い身代わりとなったのが渡辺太郎左衛門通です。通等七人は元就の逃げる矢滝道とは反対の西田の方へ尼子軍をおびき寄せ、 温泉津の小浜まで逃げて、「自分が元就だ」と叫んで、全員壮烈な討ち死にをした所が「七騎坂」です。
 いまは戦死の場所に石地蔵が祀られて、 最近まで地元の人々によって供養が毎年九月に行われていました。元就は渡辺太郎左衛門通に「浄忠」という名を贈り、毛利家では 子孫を幕末まで登用しました。

交通機関

 JR山陰線温泉津駅下車
タクシー7分

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