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更新日:2010年2月20日

銀山開発初期の遺構があると考えられている石銀地区は1993(平成5)年から調査されています。
17世紀~18世紀前半の道路の跡と銀を精練した吹屋と呼ばれる跡が確認され、その建物の中に選鉱(紛成)と精練(床吹)をした施設があることが分かりました。
そして数多くの中国製や国産の陶磁器や碁石・硯・キセルなどが見つかっております。
銀をめぐって繰り広げられた16世紀の争奪戦を偲ぶことができます。
JR大田市駅より車で20分で
銀山公園
公園脇の林道経由で15分

石見銀山をめぐる毛利軍と尼子軍の戦いは、1551(天文20)年大内氏が陶晴賢のクーデターで滅んでからのことで、元就が石見を征服した1562(永禄5)年まで続きました。
それでは、元就の石見銀山をめぐっての戦をご紹介いたします。
陶晴賢を破った元就は1556(弘治2)年石見銀山を手に入れ、 山吹城(大内義隆が築城した銀山守備の本拠)に刺賀長信を入れて銀山を守らせていましたが、銀山奪回を狙う出雲の尼子晴久は1558(永禄元)年に毛利軍を攻め、 当時の交通の要所である忍原地区で激しい戦いを挑み、奇襲で毛利軍は全軍総崩れとなり敗退、銀山は尼子の手に落ちました。
銀山奪回を果たさんとする元就は、1559(永禄2)年再び銀山に進撃し、山吹城の向側・仙の山に本陣を置き猛攻を加えましたが、攻めあぐみ、 退路とした降露坂で毛利軍は、城兵の追撃でパニックに陥り、元就自身も危険にさらされ自害を覚悟したとき、 家臣の渡辺太郎左衛門が身代わりとなって六人の従者とともに戦死しました。
この二つの戦いは、元就には珍しい手痛い敗戦でしたが、それほど「石見銀山」は、当時の武将たちにとっては重要な要所であり、 1562(永禄5)年ついに元就は銀山を奪回し、石見国を制覇しました。
この貴重な史跡「石見銀山」を、ゆっくり歩いてみませんか。
JR大田市駅より車で20分
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