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更新日:2010年2月20日

宍道湖。周囲およそ48kmで全国で7番目に大きく、少し海水の混じった汽水湖。宍道湖夕景は多くの観光客に愛され、もう一度訪ねたい場所といわれています。
中世、白潟(しらかた)のあたりは、その名のとおり潟でした。 1543年、大内義隆が尼子氏の富田城(とだじょう)を攻撃したとき、大内氏に属していた有力な出雲の国衆が尼子方に寝返ったため、大内氏は敗走。宍道湖岸を大変な勢いで帰らざるをえませんでした。
さらに、時代が進み、大内氏が陶氏に急襲された後に、 勢いを得た毛利元就は中国地方の支配者となるべく、1562年12月宍道湖の北に位置する荒隈(洗合)に陣取り、 ここを尼子氏長期侵攻拠点としたと言われています。敵の首を洗って血が宍道湖を赤く染めたと言われていますが、 宍道湖はそんな戦乱の世の中があったことを忘れさせます。「太陽が没し始めるにつれて、水に空に色どりの不思議な変化が現れる」夕暮、元就はどんな思いで見たのでしょうか。
JR松江駅より西へ徒歩10分
または、バス停大橋北詰めより徒歩2分

白鹿城は尼子十勇士の一人、松田左近將監の居城です。 1563年8月、毛利元就は法吉町の白鹿城に総攻撃をかけます。
この城は急峻な山の頂上に位置し、難攻不落の城でした。 しかし、元就は、石見銀山の坑夫らを雇い、山頂にあるこの城の井戸の堀抜きを行って、水道・兵糧攻めにでます。
この給水路を断つという作戦は、尼子軍に大打撃を与え、穴中でも戦いがありました。尼子軍は、白米を柄杓に盛り灰を混ぜて馬背に注ぎ、水に困っていないように見せかけるなどもして、毛利軍を欺こうとしました。尼子義久(よしひさ)も倫久(みちひさ)らの援軍を送りましたが、毛利軍の水道・兵糧攻めの前に尼子軍は大敗北を喫し、隠岐に逃れます。
この後山中鹿之介は再興を図り、京都にいた尼子勝久をたてて、 既に毛利方の出城になっていた真山城(しんやまじょう)の奪還に成功しますが、尼子軍は最終的に滅亡します。 今の白鹿城の辺りは、まさに「夏草やつわものどもが夢の跡」ということでしょうか。
一畑バス恵曇線バス停久米下車徒歩20分
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