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更新日:2010年2月20日

新庄小倉山城跡は、元就の妻「おかた(妙玖)」の生まれ育った吉川氏の本城の跡です。
石見国に隣接する大朝を拠点とする吉川氏は、 もともと駿河国吉河村地頭として鎌倉幕府に仕えていましたが、承久の乱の勲功により大朝本庄が与えられ、大朝の駿河丸城に館を構え、 安芸・山県郡の地頭職となりました。
応仁の乱のとき、当主・吉川経基は細川方に属し「鬼吉川」と言われるほどの猛将でした。4代経見のとき、居城をここ大朝の新庄小倉山にかまえて170年間、 吉川氏の本拠として栄えました。
元就が「おかた」と結婚した頃の吉川氏は、 尼子方についていました。1986年、国重要文化財に指定されました。
バス:
広島バスセンターから
高速バスで60分
大朝IC下車徒歩10分
自家用車:
広島浜田道、大朝ICから5分

新庄龍山八幡神社は、もと駿河八幡と言われていました。
1313年、吉川氏が大朝本庄地頭として入封の際、駿河国吉河村から勧請した神社で、現在の本殿は1558年、吉川元春が再建したものです。 元春は、毛利元就と「おかた」の二男で、1547年、当主・吉川興経が隠居の際、吉川氏の跡目を継ぎました。
1965年には解体修理が完了し、 創建当時の室町の威容が再建されました。三間社流れ造り、銅板ぶきで、県下では厳島神社につぐ古い神社建造物と言われています。1962年国重要文化財に指定されました。
バス:
広島バスセンターから高速バスで60分、 大朝IC下車徒歩5分
自家用車:
広島浜田道、大朝ICから2分

古保利山福光寺は、810~823(弘仁年間)年弘法大師がこの地に来られ、自ら仏像を刻み寺院を建立されたと伝えられています。
今から約600年前吉川経高が相模の国から大朝の地頭として着任し、この寺を祈願所及び菩提寺にしたと言われています。
以後隆盛にむかい、寺領300石、 49坊の塔頭があったそうですが、関が原の戦い以後周防岩国に転封を命じられた吉川氏と共に、一山の多くは岩国に移住しました。
その後衰退していき、 この寺は無住となり荒廃するに任せた状況でした。このような中、地元有志の熱意により1942年12月22日本尊薬師如来が国宝に指定され、他の仏像11体が重要美術品の指定を受けましたが、 文化財保護法の改定に伴い1950年8月29日本尊薬師如来と両脇侍仏が重要文化財に指定替えされ、1962年2月2日他の9体が重要文化財の指定を受け現在に至っています。
千代田インターバス停から
徒歩10分

室町時代の築城と言われる有田城は、戦国時代小倉山城の吉川氏の影響下にあって、広い豊かな田園地帯を一望できる小高い山の茗荷丸(みょうがまる)にありました。
毛利元就の初陣と言われる有田合戦は、この城を中心とした武田氏と毛利氏の激戦で、 別名西国の桶狭間の戦いとして有名です。
この合戦は、 安芸の国の分郡守護銀山城主武田元繁が勢力拡大を進めていた1518(永正14)年10月、自分の意に従わない有田城主小田刑部小輔信忠を総勢7千騎の大軍で攻め、 余勢で毛利元就の居城猿掛城を攻めてこれを破り有田に引き揚げたのが事の発端となったものです。
千代田インターバス停から
徒歩15分

吉川元春が1550年日山城に入城した時に築いたといわれ、海応寺(かいおうじ)地域のほぼ中央に位置し北東から前方にかけて 志路原川(しじはらがわ)が流れ堀の役割をし、比高10mの河岸段丘上にあります。
屋敷は東に正面を持つ東西約120m、南北80m、高さ3mの石垣があり中央には幅7.6mの門が開いております。 この石垣は巨石が用いられ積み方も10m間隔で巨石を縦に用い他は横積みとするなど特徴的な石組みとなっております。
背後の丘には吉川元春と嫡男元長の墓所があり周囲を石の玉垣で囲み石灯籠があり中央に五葉松が植えられその位置を示しています。 周辺には、史跡海翁寺跡、松本屋敷跡、八丁馬跡があります。
広島BC-山県中部線
海応寺下車徒歩2分
高速道-千代田IC~10分
| 名称 | 分野 |
|---|---|
| 小倉山城跡(史跡吉川氏城館跡) おぐらやまじょうあと(しせききっかわしじょうかんあと) |
史跡・遺跡 |
| 駿河丸城跡 するがまるじょうあと | 史跡・遺跡 |
| 日山城跡 ひのやまじょうあと | 史跡・遺跡 |
| 龍山八幡神社本殿 たつやまはちまんじんじゃほんでん | 神社・仏閣 |
| 枝宮八幡神社 えだのみやはちまんじんじゃ | 神社・仏閣 |
| 史跡吉川元春館跡 しせききっかわもとはるやかたあと | 史跡・遺跡 |
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