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更新日:2010年2月20日

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安芸高田市の紹介

わしが生涯を過ごした地である吉田について紹介しよう。 吉田町は、史跡と文化に囲まれた町で、わしの居城であって郡山城跡、わし毛利元就の墓、百万一心の石碑等、毛利に関する史跡が数多く残っており、町を流れる江の川と多治比川沿いに豊かな農地が広がり、美しい田園風景を描き出しておる。
毛利元就肖像画
また、わしが三人の息子へ毛利、吉川、小早川の三氏の団結を説いたという話「三矢の訓え」が、サッカーJリーグのサンフレッチェ(三本の矢と言う意味) 広島のチーム名に採用され、それを契機に町ではサッカー熱が高まり、本格的サッカー公園の建設も推進しておる。

郡山城跡

郡山城跡

 わしの居城であった郡山城は、現在の吉田町市街地の北方にあり、1336(建武3)年に、毛利時親公が郡山東南麓に旧日本城を築いて以来、1591(天正19)年にわしの孫輝元が広島城を築いて移るまでの256年間、歴代の毛利氏の居城であった。
 また、わしは1523(大永3)年に郡山城を継ぐと、大拡張工事により、城域を全山に拡大した。わしの築いた郡山城は、標高400m、比高200mの山頂に本丸、二の丸、三の丸を構え、四方に延びる峰には、200以上の曲輪があり、 全山を城郭化した大規模な山城であった。
 わしはここを本拠として、幾多の合戦を戦い、 中国地方の統一を成し遂げたのである。現在は、郡山の中腹に毛利氏墓所、麓に吉田町歴史民俗資料館があり、 わしをはじめとする毛利氏にまつわる資料の数々や、吉田町の歴史が戦国を中心に紹介されておる。

交通機関

広島バスセンターより
吉田行きバスで約1時間30分
吉田町役場前で下車
徒歩約15分

毛利元就墓所・毛利一族の墓

毛利元就墓所・毛利一族の墓

 わしの墓は、郡山の中腹、郡山城本丸跡へ登って行く登山道の途中にある。墓標には「はりいぶき」が植えられ、現在は枯れかけているが、趣のあるたたずまいに包まれておる。
 また、わしの墓のそばには、郡山初代城主毛利時親公以来の毛利氏歴代の墓所があり、わしの兄興元と、その子幸松丸の墓や、わしの息子隆元の妻の墓等が並んでおる。
 わしの墓の正面にある百万一心と刻まれた石碑は、わしが郡山を造築する際に人柱に代えて、「一日一力一心」と刻んだ大石を埋め、鎮めとしたという話から、 その拓本とされるものを後に模刻したものである。
 参道から墓所へ向かって行くにつれ、だんだんと歴史の重みを感じるような、いい雰囲気の場所なので、ぜひ参りに来てもらいたい。

交通機関

広島バスセンターより
吉田行きバスで約1時間30分
吉田町役場前で下車
徒歩約30分

厳島神社(佐々井)

厳島神社(佐々井)

 佐々井厳島神社は、1199(正治元)年、宮島厳島神社の勧請によりこの地に造営されたもので、3年後には800年記念行事が予定されています。
 現在の厳島神社は、1574(天正2)年、毛利輝元により再建されたもので、厳島神社に厚い崇敬の念を持つ毛利氏は、高田郡内4カ村に厳島神社を勧請し、高田5社明神として佐々井をその総社とし一族の隆盛と地域の安泰を願ったと伝えられています。
 本殿には、5基の玉殿が安置され、うち1基は14世紀前期の造立と言われわが国最古のもので、残る4基も14~15世紀の造立で、細部意匠や、技法、保存状態から神社建築史上極めて貴重なもので、県の重要文化財に指定されています。

交通機関 

広島バスセンターよりバスで1時間
八千代町役場前下車10分

日本で唯一「天下墓」

天下墓

 天下墓と名のつく墓は日本中でここしかありません。 この天下墓について文政2年の書き出し帖では次のように記述しています。
 栗谷峠北平の麓、石州久喜村境に智教寺と申す所、御境石より三十六間南に小丸あり。まわりは三町ばかり。その嶺に五輪石碑三基あり、其の所は地元人天下墓とも、義昭墓とも申し伝え候。又大道のほとりに寺屋敷と申す田畑あり智教寺屋敷ならん。義昭、「毛利元就」に口糊とあれば、此の智教寺に隠れ住み遊ばされ、御逝去遊ばされ候と申し伝え御座候。
 また、芸藩通志では次の記載が見えます。 十五代将軍足利義昭、晩年流浪して毛利氏により、高田郡の生田村智教寺に蟄居し、後同所に死すという墓あり。
 今風に訳しますと、生田智教寺に五輪石が数基あります。 これは毛利氏を頼ってこの地に来た足利義昭を祀ったものと言われ天下墓と呼ばれています。

交通機関

高田ICから自家用車で
吉田瑞穂線経由15分

広島県一の生産量を誇り、元就も特に嗜好した「もち米」

お餅写真

 毛利元就はことのほか餅が好きだったようです。
 永井路子著「山霧」のなかでも、初対面の方との口上も丁重な挨拶をし、くれぐれも殿によしなに、と申した後、くつろいだ顔つきになり、ときに酒が好きか、餅が好きかとたずね酒の好きな人には「酒はいい、陣中の寒さ凌ぎにもなるし、元気が出る」逆に酒が嫌いだと言われた人には、「酒を呑むとやたらに腹を立てたり、言わんでもいいことを言って事を起こすからな」と言って餅を与えた・・・と記述されています。
 元就本人も一度に5つも6つもペロリと食べられたようです。
 餅は、厳しい冬の保存食、または主食として重要な食料であったのは勿論ですが、神祭や儀礼など、非日常的なおりに調整する食物でもありました。
 その背景には稲霊信仰があったと考えられます。 儀礼のときに作られる餅は生命力を再生・補強する意味をもちます。
 神楽など民俗芸能の多く残る美土里町で、もち米の栽培が盛んであるのはきわめて象徴的です。

高宮町式敷にある毛利隆元逝去の地

 隆元は1563(永録6)年8月3日高宮町式敷で急病を発し薬石の効なく4日の払暁に瞑目しました。
 尼子氏との激戦の最中なので蓮華寺で遺骸を荼毘に附し遺骨を吉田郡山に持ち帰りました。
 式敷にある「隆元の墓」は荼毘に附した火葬場の跡に地元住民が、2段の基壇の上に石碑を建て、隆元の墓として香華しています。

交通機関

中国自動車道
高田ICから車で10分のところ

 五龍城址(ごりゅうじょうし)

五龍城址(ごりゅうじょうし)

 甲田町の歴史を語るうえで切っても切り離せないのが、 266年もの永いあいだ甲立の地に居城した、戦国武将「五龍城主宍戸氏」です。
 1334年宍戸朝家が安芸守として甲立に下り、菊山山麓に柳ケ城(やながじょう)を築いて住み、後に対岸に見える元木山に城を移しました。
 その際城中の水が不足するので、五か所に五龍王を祭って祈願したところ、井戸水が湧き出して水に恵まれたことから、 山名を五龍山と改め、城も五龍城に改名したといわれています。
 それ以来五龍城は宍戸氏代々の居城となりました。
 7代元源のときに吉田郡山城主毛利興元と激しい争いが続きましたが、郡山城主が元就に変わってからはお互いに和睦し、 元源の孫隆家と元就の娘五龍姫との婚姻で毛利氏と宍戸氏は堅く結ばれました。
 尼子晴久が郡山城攻略を企てた際、8代隆家は伯父隆兼とともに犬飼平で尼子の大軍を退散させ、さらに道を変えて攻めてきた尼子に対し、自ら郡山に入城して先鋒として戦いました。

交通機関

JR芸備線甲立駅下車徒歩8分

長見山城址(ながみやまじょうし) 渡邊七人塚(わたなべしちにんづか)

長見山城址(ながみやまじょうし) 渡邊七人塚

 1351年、中村澄晴が長見山に築いた長見山城は、 後に渡邊氏が城主となりました。
 1516年郡山城主毛利興元が24歳で病死し、 跡目をついだ幸松丸もわずか9歳で亡くなったことにより、興元の弟元就と、元就の異母兄弟元綱の間に郡山の跡目をつぐ争いが起こりました。
 元就が元綱を討ち果たし、 毛利氏の重臣渡邊次郎左衛門は元綱に味方していたため元就に郡山で殺されます。
 長見山城のふもと内長見にいた渡邊一族7人も、 元就の使者によって討ち果たされました。
 このとき次郎左衛門の子、太郎左衛門は逃げ延び、 後に許されて長見山城に帰り、郡山合戦で戦いました。
 甲田町下小原内長見(しもおばらうちながみ)にはそのとき討たれた一族の墓が、渡邊七人塚として残っています。五輪塔が四基あり、 以前は桜一本、榎二本が残りの三人の墓標に変えてあったということですが、今はもう枯死してしまっています。

交通機関

JR芸備線吉田口駅下車徒歩20分

再三の戦塵にさらされた古城「日下津城」(ひげつじょう)

日下津城(ひげつじょう)

 向原町大字坂の権現山にあり、水田面より高さ100mの急峻な山尾根に構えていた典型的な山城です。
 毛利親衡が、その子匡時とともにこの地に城を築いたのが日下津城です。「坂」氏を名乗りだしたのは、この匡時からです。
 この親子は観応の擾乱の時には南朝方に組したため、1352年に北朝方の安芸守護職武田氏信の大軍に攻撃されましたが、半年間も籠城を続けて大勝へと導きました。
 1522年坂広時は、毛利氏が大内方から尼子方に転じたのにもかかわらず、大内方に留まることを主張しました。そのため、尼子経久から強引な坂氏攻撃を迫られた毛利元就は、やむなく日下津城を攻め広時を自刃させました。
 1524年元就の毛利氏の跡目相続に際し、坂広秀は元就の義弟相合元綱を擁立しようとしたため、夜襲を受けて討ち滅ぼされました。
 このように、県下古城のうち再三の戦塵にさらされためずらしい城といえるでしょう。

交通機関

JR芸備線向原駅下車
芸陽バス「豊栄」方面行き乗車
「下中組」バス停にて下車
麓まで徒歩10分

「尼子三兄弟ゆかりの墓」

尼子三兄弟ゆかりの墓

 向原町大字長田長谷尻にあります円明寺跡は、尼子義久、倫久、秀久の三兄弟が幽閉されたところです。
 毛利氏と尼子氏の長い攻防の結果、1566年尼子氏は降伏しました。
 尼子三兄弟はとらわれの身となり、月山富田城(島根県広瀬町)からこの地に送られ、幽閉される身となりました。 以後23年間にわたって軟禁されたということです。
 1600年の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長に減封されたのに伴い山口県萩市に近い阿武町に移り住み、その地で亡くなったということです。 
 尼子義久、秀久の墓は、現在奈古の菩提寺補陀山大覚寺に残っています。したがって、本町にある「尼子三兄弟ゆかりの墓」は、三兄弟に随従してきた重臣の墓だといわれています。

交通機関

JR芸備線向原駅下車
備北バス「志屋」方面行き乗車
「長谷木」バス停にて下車
徒歩15分

関連史跡等詳細情報

名称 分野
郡山城跡 こうりやまじょうせき 史跡・遺跡
清神社 すがじんじゃ 神社・仏閣
毛利元就の墓 もうりもとなりのはか 史跡・遺跡
吉田町歴史民俗資料館
よしだちょうれきしみんぞくしりょうかん
資料館
三矢の訓の碑 みつやのおしえのひ 文化財・史跡(その他)
百万一心の碑 ひゃくまんいっしんのひ 文化財・史跡(その他)
毛利氏一族の墓 もうりしいちぞくのはか 史跡・遺跡
猿掛城跡 さるかけじょうせき 史跡・遺跡
福原城跡(鈴尾城跡)
ふくはらじょうせき(すずおじょうせき)
史跡・遺跡
桂城跡 かつらじょうせき 史跡・遺跡
毛利隆元の墓 もうりたかもとのはか 史跡・遺跡
郡山公園 こおりやまこうえん 公園・庭園
堂床山自然歩道
どうとこやましぜんほどう
山岳,自然探索,湖沼
土師ダム記念公園
はじだむきねんこうえん
公園・庭園,資料館,その他の花
五龍城址 ごりゅうじょうし 史跡・遺跡
宍戸隆家夫婦の墓
ししどたかいえふさいのはか
史跡・遺跡
尼子三兄弟ゆかりの墓
あまごさんきょうだいゆかりのはか
史跡・遺跡
滝の観音 たきのかんのん 神社・仏閣
日下津城跡 ひげつじょうあと 史跡・遺跡

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